にんじんブログ

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減点法(日記)

2023.1.16記

 にんじんはLINEをしていない。

 この前「LINEで連絡を取り合っているのですが」と言われ、「いやLINEはしてません」と答えたら、「あ、じゃあメールですね」と返事があった。LINEじゃなかったら駄目だといわれたらどうしようかと思っていたのでたいへんよかった。だがそのすぐあと、「あ、メール……ってやってますか?」と言われた。LINEをやっていない人間はメールも知らないとみなされるらしい。

 にんじんが知る「最近の曲」はほぼすべてアニメのOPかEDなので、音楽番組でやるような曲は何も知らない。Netflixで洋画しか見ないので日本の俳優を言われてもわからない。「何も知らないなあ」と実家でよく言われる。ところがうちのもんと来たら『マトリックス』さえ見ていない。洋画は一切見ないらしい。『男はつらいよ』も見ていない。いったい何を見ているのか。尋ねたが、まあ、案の定にんじんには何かわからない。ジャニーズのなんとかというグループが好きらしいが、にんじんには魅力がよくわからなかった。クラスにいた””やんちゃ””な人がそのままデカくなったようにしか見えない。同様に女性アイドルにも理解がない。まず区別がつかない。途中で入れ替わっても気づかないと思う。だがアニメと来たら、可愛い連中ばかりである。しかしたいていの人にとって、そこまで執心するほどのものでもないらしい。チョッパーとかアーニャとかを見てヒャ~とは言っても、能力がどうとか、経歴がどうとか、大した問題にはならないようだ。ところでにんじんはアーニャよりベッキーのほうが好きだ。ビジュアルが。

 アイドルのライブ映像かなにかを、実家の大きいテレビで見せられて思った。まさかここまで内容のないものとは。同じようなショットが延々と続き、断続的に高さの違う音がツーツーツーと聞こえ、時折イェ~と言い、ひとつも面白くない小芝居を挟んでくる。ツーとイェ~とおふざけしかない。誰が見ていられるのか。しかし、にんじんもそのテレビを使わせてもらってアニメを見ることがあるが、なんと思われているのだろう。やたら高い声の女と、甘ったるい声を出す男が、時折完全に停止したり口だけ動かしたりするみたいな、……なんかそういうものとして見えているのではないか。というか、そもそも見えているのか。

 どちらもきっと「仕上がった」「良い」ものには違いない。だが、何が良いのかまったくわからない。たぶんあまりにも、ライブとかダンスとかアイドルとしてのふるまいとか、作画とか背景とかストーリーとかいろいろなことについてお互いに知らなさすぎるのだ。そして特に知ろうともしていない。もしも『価値』が普遍的なものであると信じるならば、言葉を尽くし、時間をかければ、きっとそのものの良さはわかるはずだと考えるだろう。そこで否定してしまうと、価値が結局、「人それぞれ」になり、世の中はもっとばらばらになる。別に知らなくても構わないが、一番奥にある価値の可能性は残しておかないといけないかもしれない。

 

 

 ……と、きれいなことを言ったところで、にんじんは『運がアップする!』とかわけのわからんことが書いてある本を一切読まない。あれの価値などまったく感じないからだ。運はどうにもならないから運なのだし、どうにかできると考えるほうがどうかしている。

 そう思うと、「人それぞれだよね」が進むのはむしろ、価値を信じないことからではなくて、信じることからくるのではないかとさえ思える。純粋無垢に「なんにでもいいところはあるよね」というと、自分にはどう考えても理解できないものにも価値があることになる。だからどちらかというと「価値がある」と信じるよりも、「価値を見極めることができる」ほうにこそ、普遍性の意味を見たほうがいいのではないか。ちなみに、なにかが長年残るのは私たちがいうところの『価値』とはなんの関係もない可能性もあるので、歴史の長さは関係ない。重要な要素には違いないが。

 つまり価値は「ない」ことがわかっても、「ある」ことは一生仮説に過ぎない。理解できないそれに価値があるかどうかは保留。我々はアニメに価値があるから見ているというよりも、好きだから見ているのだ

 

~糸冬~。