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「歴史の哲学 物語を超えて」③歴史哲学の書き換え

歴史哲学の書き換え

 ブローデル『地中海』という全体史は、自然環境などの「安定した構造」、社会文明などの「緩慢な変化」、そしてその表面で生じる「波頭」としての出来事の総体だった。ここで、各時期値域における、さまざまな規模と位層にわたる諸システムを総称して「歴史システム」と名づけることにしよう。個別の活動なしに構造はありえず、構造なくして個別の活動はない。その都度生まれ、変形していくこのシステムの根底にはどのようなメカニズムがあるのだろうか―――もろもろの構造はだれかが全体の設計図をひいて作られたわけでも、特定の原因で作られたわけでもない。そこかしこで小さく生まれた不均衡が小さな、あるいは大きな闘争や衝突を引き起こし、これを回避するためのミクロなゲームも起こっていく。やがてそのいくつかが定着し、状況に応じて変形したり、何かが廃れたりする。そしてそこでも不均衡は起こりつつある。

 創造者や原因・本質をもたず偶然に支配された闘争の過程としての歴史システムは、その全体を複雑系をモデルとして把握することができる。特に「カオス系」が歴史システムの理解に向いていると考える歴史学者は多い。

  1.  システムの変化は、個々の出来事や個人、要素間の線的因果関係の束ではなく、システム全体の再組織化として把握されなければならない。
  2.  一度成立した慣行や制度というマクロ秩序がミクロな行動を規整し続ける。
  3.  全体の制作者はおらず、いかなるシステムも充分に統合されることはない。
  4.  偶然が決定的な役割を果たす
  5.  システムの成長と衰退両方に適用可能でなければならない。

 これが正しければ、歴史はもはや物語ではなく、複雑系となった。これによって私たちが知ることのうち最も重要なことのひとつは「自由な主体」が幻想であり単に物語にすぎないということだ。それはニーチェの『人はなにかを意志することはできるが、意志を意志することはできない』という言葉がわかりやすい。それはその者が埋め込まれた各システムの力学によって形成され、その者自身は構造の可変的項にすぎない。では個人はどういう存在なのかといえば、パトチカがいうように『単なる継電器』なのだ。つまり、蓄積された力を流し続けるための装置であり、電圧を高め電気の方向を変える装置である。だが別にそれ自体が力であるわけではない。