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(日記)しあわせ街道

2024.07.05記

 幸福というものが人生全体に及ぶ長期的概念であることを理解すれば、快楽こそが幸福だという奇妙な主張を退けることができる。だがその概念的理解があまりにも難しいのは、楽しかったり嬉しかったりするほうがつらかったり悲しかったりするよりも望ましく思えるからだ。特に背景情報も環境情報もなにもない、ツルツルで真っ白な理論的空間ならなおさらである。嘘を白状したら怒られる。怒られるのは不快だ。なら嘘は白状しないほうがいいのか? 重要なポイントは明らかに、そのあとも人生は「つづく」ということだ。裏切ったほうが利得が高く、かつそれが一回きりで、人生がその瞬間にはじまり終わるなら、裏切らないほうを選択する合理的理由などない。

 たとえば恋人や家族がいても幸せとは限らない、という文はまったく正しい。だが文意はあいまいである。もし「よいことよりも悪いことのほうが多い」という量的計算に踏み込むならば、快楽主義に片足を突っ込んでいる。恋人や家族との関係は幸福に関連し、時にはそれをもたらしてくれるが、それだけをもたらすことはない。あるいは反対に恋人や家族がいなければ幸せにはなれない、という考えはどうだろうか。これも間違っている。なぜなら、恋人や家族は幸福に関連はするが、必然的にそうだというほどに強い繋がりはないからだ。

 このことを表現するのにジュリア・アナスによる「生きている環境/生きていることそのもの」という区別はわかりやすい。お金があること、恋人がいること、家族がいること。そうしたことは望ましいポイントではあるが幸福には基本的に関係がない。むしろそうした環境のなかでどう振舞うかというところに幸福は強く関係する。ノヴァスコシアで過ごすアン・シャーリーにさえも幸福への道はいつもひらかれていたのだ。

 ただ一方、この区別によれば、ひとつの残酷な(というか失望させられる)事実が導かれる。つまり、「こういう振る舞いをすればいいんだ」という形での指針がありえないということである。幸福にいたる道は活動でありプロセスであることを理解しても、具体的にそれがこの行動だとマニュアル化できない。エウダイモニア主義者は「有徳であること」を道しるべとするようにいうが、当人たちも認めるように、そうしているからといって幸福になれるわけではない。このことはピュロン主義者たちと類比的であると思われる。ピュロン主義者は独断を控えることによって心の平静を得ようとしたが、当人たちも認めるように、いくら判断を控えてもいつだって平静でいられるわけではない。ただそれは考え得るかぎりの有力な方法のひとつであるにすぎない。自分の子どもが嘘つきであるよりも正直であることを望むように、有徳であることが幸福であることの信頼できる道しるべなのである。

 

 ……という議論を経て、自分はどこへたどりついたのかを問うのは重要である。もしかすると「で、私はなにをすればいいの?」と思ったかもしれない。そのことがまさに、概念的な区別の難しさを物語っている。

 

 

 

 

 

 アニメ版『こんにちはアン』においては、まさにこのスト