にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

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(メモ)志向的体験の区別

 志向的体験が対象に関わる仕方を、フッサールは「質料」と「性質」に分ける。たとえば””イェナの勝者””はナポレオンという質料を持つ。一方、判断や疑問、願望など、いわゆる話法によって言い表されるような対象との関わり方のちがいを性質という。どんな志向的体験も質料と作用を持っている。質料はいわば””意味””であり、性質はいわば””どのように存在しているか(存在様相)””である。

 ところで目の前の花を美しいと思う価値作用というべきものと、目の前の花を捉える知覚作用というべきものは同じ質料を持つ。この違いは性質に求められるのだが、より踏み込んでいえば、この知覚作用なしにこの価値作用がありそうにないのだから、価値作用は知覚作用に依存しているともとれる(これを基づけと言う)。知覚作用にこのような依存はない。

 

 

 

(メモ)代表としての、ノエマ的意味

 サイコロはすべての面を同時に見ることはできない。しかしたとえば「4」「5」「6」という面が見えていれば、それを「サイコロ」として捉えられる。この一側面を現出といい、それがサイコロという現出者を捕まえるのである。現出者は現出を必ず伴い、現出だけの現出などというものはない。この相互関係にもとづいて、現出は現出者を捉える働きを志向的体験と呼ぶ。

 この現出はノエマ的意味といわれることもある。注意しなければならないのは、この「ノエマ的意味」というものはサイコロの代理をしているのではなく、代表しているということである。ノエマ的意味というのはサイコロという「布」の「見本」であり、サイコロという「ニュース」の「見出し」であるとたとえられる。

 代理というのは、サイコロという””世界内の事物””と、意味という””記号””を関係づけることであり、異なるものを同じものと言うことである。一方、代表というのは同じものの全体と部分の関係である。

 

 

親の背中(日記)

2022.08.23記

 子どもは親の背中を見て育つ。たしかに。親というのは育ての親のことだ。

 その育ての親(=生みの親)がたまに「ちゃんと育ててきたつもりなんだけどなあ」と冗談で言う。「そんな思うように育てられるわけがないじゃん」といろいろ会話があるのだが、思うように育てられないのは””意図したとおりに育たない””からだけではなく、””意図しないところまで育つ””からなのだということは、それほど意識がないように見える。まさに「背中」を見て育つわけだ。

 今日、たまたま花火大会の話になった。すごい人ごみになることは誰の目にも明らかだったので、「よくあんなところに行ける。僕にはとてもできない」というようなことを言った。すると親はうんと小さかった頃のことを、人生で何度目かぐらいの多さで引き合いにだし、「人混みに埋まって死ぬ死ぬいってたもんねえ」と小馬鹿にしてきた。小さい時のわずかな出来事がいつまで経っても話題にされるので、なるほどどんなわずかな出来事でも半永久的に影響するのだなと学習してしまったのだ。コラ。

 

 

にんじんと読む「進化と人間行動」 第一章

第一章 人間の本性の探究

 ヒトは生物である。つまり進化の産物である

 だがすべてが遺伝子によって説明されるわけではない。「種子が発芽するためにも環境が必要で、環境があっても種子がなければ発芽しない」ということは、遺伝と環境の対立にほとんど答えを与えている。問題なのは、どちらがどのくらい影響を与えているということなのだ。

 ヘンリー・フォードは言った。「会社がつぶれるのも、労働者が解雇されるのも、飢え死にする人間が出るのも、すべては適者生存の自然の理である。この世が弱肉強食の生存競争の世界であるのは、生物界の真理である。したがって、つぶれる会社を救ってやる必要もないし、適者生存に負けた貧乏人を救済する必要はない」。これは社会進化論と呼ばれるものの影響であり、進化論の大きな誤解され方のひとつである。彼らは進化と進歩を同一視し、進化に価値と方向性を付与し、西欧人>未開人、金持ち>貧乏人などと考え、社会全体の利益のために起こるものだと考えていた。だが進化は価値とはまったく関係なく、方向性などなく、「遺伝」にしか関わりがない。このうさんくさい社会進化論の考え方のせいで、それが下敷きにしているダーウィンの進化論もうさんくさいと考えられてしまった。

 だから「社会生物学」という、人間の現在の行動を進化にもとづいて説明する試みにも大きく尾をひいた。利他行動・性行動等々、こういったものがどうやって形作られてきたか遺伝子レベルの淘汰の理論で説明しようとしたのだが、人間の活動を遺伝子に還元しようとする新たな社会進化論とみなされた。遺伝というものの「決定論」的な、「運命」的な感覚も持たれてしまっている。だから私たちとしては、ことばの持っている意味を、正確に把握する努力をしなければならない。

 

 

にんじんと読む論文「フッサール現象学における認識と真理の問題」

library.bliss.chubu.ac.jp

自然的態度と現象学的態度

 世界が存在するということを自明とする態度における「認識論」は、主観と客観のあいだの関係によって語られるだろう。主観が客観を捉える仕方を説明するならばそれは《写像論》にならざるを得ない。すなわち、客観は外側にあり、主観は内側にあり、この内側に客観の代理者が与えられる、というわけである。

 だがそもそも主観と客観をわけてその関係を問うと、そもそも主観が客観をそれほど正確に捉えているのかという問題が起きてくる。それを保証することは原理的に絶対にできないし、まず、客観というものが存在しているのかどうかさえもはっきりとは言えなくなってしまうのだ。

 それに、たとえば絵画が絵画として捉えられるためには単に紙や絵の具が見えていればいいわけではない。絵画とは色の集まりそれ以上のものなのである。これはたとえば、机のうえにある正方形の書かれた紙は、たいていの角度で平行四辺形として捉えられながら、それでもなお正方形として見られるのと同じである。すなわち単なる平行四辺形ではなく正方形、単なる色の集まりではなく絵画なのである。主観もまた正方形の構築に携わっているのだ。正方形が客観の代理者として与えられたとしても、そこで前提とされていた平行四辺形の知覚のほうはどうなのか。平行四辺形はどうやって与えられたのか。これを答えるために、写像論はまた写像を持ち出すしかない―――こうして無限後退に陥るのである。

 そこで主観と客観の問題は棚上げにし、先ほどの平行四辺形と正方形の関係についての観察に立ち戻る。正方形という「現出者」は平行四辺形という「現出」を伴って必ずあらわれる。くわえて、現出だけの現出はないのである。この二つの関係はすなわち、現出というものが既に現出者の現出という構造を持っていることを示している。現出が体験されるとき、これは既に現出者に関係づけられているのである。この体験を””志向的体験””という。わたしたちがなにかを観察することができるためには、志向的体験がなければならない。志向的体験によって構成されていない何かなどまったくない。

超越論的現象学における存在論と認識論

 あらゆる物事が志向的体験によって構成される相関者として解明される。だから自然的態度における、私たちにとってのふつうの世界は、あるがままの姿でその起源をあきらかにされ、回復されることになる。では先ほどの認識の問題に関して、どのような道がひらけることになるだろうか。

 客観、つまりどんな実在的・観念的・空想的・背理的……なものであれそれは志向的体験によって構成される。構成される以上、当然だが、それは手元にある材料から構成されたものである。ものごとは経験を重ねることで詳細な規定を受けることになっていくが、しかしいまこうして構成されている以上、最低限の大まかな規定は少なくとも受けているはずであろう。私たちは、常にすでに、世界を形成してきており、その世界のなかでは犬が犬として、松の木が松の木として存在している。あれは犬であり、猫であることが知られている。こうしたことをもとに、どんなものも規定を与えられ、構成されてくる。客観と主観のあいだにあるように思われたミゾは、「客観」というものに絶対的な外部という地位がないことを確認してしまえば、もともとそんなものはないことが明らかになる。

 では「正しく」構成するとはどういうことだろうか。

 自然的態度においては主観の内側の写像と客観が一致することが、すなわち真理であった。だが一致しているかどうかなど保証できず、ここには原理的な謎が残ってしまったのだった。ミゾの埋め方からすると、現象学において真理とは、正しく構成すること、であろう。だがいったい、どうやってそんなことがわかるのか? これはたとえれば「調和」であり、なにかが偽であるというのは受けた規定に不調和が生じるということである。

 このような真理観は《真理の整合説》=「ある主張が真であるとは、適切なかたちで整合的で包括的な信念の集合に含まれるということ」(にんじんと考える「真理とはなにか」🥕 - にんじんブログ)を彷彿とさせる。しかし整合説とは異なる。なぜなら整合説は自然的態度と同じように絶対的外部としての世界の存在を暗に前提しており、これにすっきりと合う信念体系を想定するからだ。だからこの体系とこの体系はどっちのほうが真理なのか、などといったことを問い始めてしまう。だが現象学における真理は、調和的にそのつど確証されるが、常に不調和になる可能性に開かれている。最終性を持たない。その対象把握を撤回する可能性を本質的にいつも排除することはできないのである。どれほど自信満々に、どれほど証拠が積み重なろうとも、原理的に、経験が進んでいった先でどうなるかはわからないのだ。

 志向的体験とともに、その現出者はなにがしかの規定を与えられていく。「コレは~だ」「コレは~だ」という風に。これらを「コレ」という同一物に関する規定にするものとして働いている志向的体験もまたあるわけで、現象学では「同一化綜合」と呼んでいる。ここでまとめあげられているところのコレという項が「対象」と呼ばれる。このように対象を定義する仕方は、個々の名前と世界の対象が関係を持つような通常のやり方とは異なっている。さて、あるものに対して何度も言及できることは当たり前である。だが、この反復こそが、対象を同一者として成立させるものなのである。つまり反復可能性がなければ対象にはならない。(経験の構造―フッサール現象学の新しい全体像

 

死について(リライト)

2018年11月8日の記事。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

【要約】

  •  人はいずれ死ぬ。葬式は故人のためではなく、故人関係者のためのもの。
  •  幽霊の正体は、言葉の意味である。たとえば廊下は、ふつう人が歩いてくる可能性のあるものと理解されている。しかし出入り口を施錠しているなどして人が来ないことを事実として理解すると、廊下の存在自体が持つ人が歩いてくる可能性が際立ってくる。
  •  だから、その人が亡くなったあと、その人が現われるであろうはずの場所に、その人の幽霊を見るのだ。

 幽霊論はいま見返してもまあまあ興味深い。親戚が亡くなって、真剣に考えたものと見える。

  •  死ぬということと全身麻酔を比較する言説がある。そのおかげで、ぼくの死のイメージは完全に「全身麻酔」である。こらえようとしても、生物としての自然に従って、絶対に死ぬ。気合で耐えるとか、愛の力によって蘇るとか、そういうことは一切ない。人間は死ぬ。スイッチを切るように死ぬ。麻酔と違うのは、二度と目を覚まさないことだ。寝ているときの記憶などない。死それ自体は、まったくおそるるに足りない。
  •  死が怖いのは、「死に至る苦しみ」と「未練」のためである。苦しみは、もはやどうにもならない。どのようにして死ぬかなど選ぶことはできない。

 ぼくは昔よりも、死ぬことを怖がっていない。一度過呼吸で病院へ行くほど苦しんだからかもしれない。あるいはあきらめがついたのか。ただ、痛いのは嫌だなとどこまでも思う。