本日のテーマは「生まれか、育ちか」です。
生まれとは、いわば遺伝子。育ちとは、いわば環境。
私たちの中に眠るいわゆる才能、潜在能力、何ができるか、どう成長するか。そういった私たちのすべては、生まれによって決まるのでしょうか、育ちが重要なのでしょうか。
答えは明快——どちらでもある。
「どの遺伝因子も環境から切り離して考えることはできない。(略)また、どの環境因子もゲノムと関連せずに作用することはない。[特徴を]発現させるのは遺伝子と環境の相互作用のみである」
- このことは、すなわち「生まれか、育ちか」という対立自体が間違っていたことを意味します。さらにこのことは、「遺伝子が優れている、優れていない」などと単純に話せないことも意味します。
- 遺伝子は命令する。遺伝子は指図する。遺伝子は決定する――これらはいまだに信じられていますが、誤解であることがわかってきました。「どうしてあの人は歌がうまいの?」「遺伝子がその理由」……なんてことはまったくありません。
- 遺伝子のある部分を取り出して、そこが常に同じ効果を及ぼすなどと考えてはならないのです。他の部分の配列、そして環境に依存して、その遺伝子が何を・どこで・いつ生み出すかを決めます。青い目は? 茶色い髪は? 親から受け継がれた遺伝子が影響ではないの? もっといえばエンドウマメだってそうでは? ———しかし、遺伝を相互作用だと捉えた途端、いずれも単なる組み合わせの問題以上になります。「ママがこう、パパがこう、だからあなたはこう」という説明自体が、誤っているのです。
まずたしかなことから。「遺伝子はタンパク質の生成を指示する」
肌を作るのも、髪を作るのも材料はタンパク質。しかも遺伝子は親のものが受け継がれるわけだから、「親がこうなら子どももこうだ」と言われて生まれが徹底的に重視されてきました。
しかし問題なのはここから。「タンパク質に影響を及ぼすのは遺伝子だけではない」
ここに出てくるのが環境刺激、または栄養、ホルモン、神経衝撃、他の遺伝子の働きかけ等々です。遺伝子が「はい、これ作って」と指示しても各部分がそれを機械的に受け取ってその通りに作るわけではないのです。
しかも、A,Bが同じ遺伝子であったとしよう。A,B→aのように常に同じタンパク質を生成するわけではない! A、Bはいつ、どのように活性化したか? それによって異なる種類のたんぱく質を生成することがある。「一部の遺伝子は可変性をもつ」
われわれの生きる一瞬一瞬が、遺伝子発現にさかんに影響を及ぼしているのだ。
メンデルの法則は単純すぎたのだ。
実は『身長』もそうなのです。「パパ&ママが低身長だから」と悩む必要はもうないというわけです。日本で育った日本の子どもと、カリフォルニア州で育った日本の子どもを調査した研究があります。二人の遺伝子プールは同じであるにも関わらず、その当時の栄養事情・医療事情が良かったカリフォルニアの子どものほうの平均身長が、12.7cmも高かったのです。
遺伝子は、あらかじめ決まった外形、あるいは体つきをつくるよう指示を発するのではなく外部の世界とさかんに相互作用し、その場その場で唯一無二の結果を生み出すのである。(略)
「生まれか育ちか」は、今日ではまったく意味をなさない。
私たちが注目すべきなのは遺伝子でも、環境でもなく、その相互作用だったのです。著者はその相互作用を「動的発達」と呼びます。
ヒトにはこういう人生を送りなさい、という指示があらかじめ組みこまれているのではなく、さまざまな人生を送りうる能力が備わっている。遺伝子によって凡人になることを運命づけられている人はいないのだ。
知能
動的発達はもちろん知能においてもそうです。
過去、白人のプロテスタントが生物学的に優秀であるとされ、遺伝子からわかる先天的に知能が高い者に任せれば世の中はもっとうまくいくはずだと主張されたことがありました。今でもこうしたことを公然と主張する人がいます。
しかしそうした人たちにとっては残念なことに、知能もまた「動的発達」であり、つまり遺伝子と環境の相互作用を見なければならないのです。
一九三二年、心理学者のマンデル・シャーマンとコーラ・B・キーは、IQスコアが共同体の孤立の度合いと反比例することを発見した。文化的に孤立すればするほどスコアが低くなるのだ。
「子供は環境が要求する分だけ発達する」。
知能は上がり続けています。一九〇〇年と比べてわずか百年のあいだに知能が飛躍的に向上した理由はなんでしょうか? 遺伝子の変化? いえ、環境の変化です。
- そもそも、ひとりひとりの順位を確定するのは生物学的な構造ではない。
- どの人もずっと最初の順位のままであることはない。
- あらゆる人間(また、社会全体)は、環境がそれを要求すれば、もっと賢くなれる。
「あいつらは馬鹿だから全員切り捨てよう」という意味の発言を政治家が行うのは、恐ろしく浅薄皮相だということです。
現在わかっているプラスの環境因子はこちら。
- 子供がごく幼いうちからたびたび話しかける。
- 子供がごく幼いうちから本を読み聞かせる。
- 養育と励まし。
- 大きな期待を寄せる。
- 失敗を受け入れる。
- 「成長志向」を促す。
「学業成績がきわめて優秀である者は、かならずしも他者より『賢く』生まれついたわけではなく、他者よりよく勉強し、自己修養に励んだのである。」
章末にある比喩はとてもわかりやすいものです。
私たちは知能をはかるとき、まるでテーブルの長さをはかるようにしてしまう。けれど本当は五歳児の体重をはかるようにはかるべきなのです。「明日になればどれだけ増えているだろう?」
わたしたちは天才と呼ばれる人々を見て、自分には決して届かない圧倒的な差を感じてしまいます(「グレートネス・ギャップ」)。その差にわたしたちは思わず、あいつはああいうふうに生まれついてるから、と言いたくなってしまうのです。「才能は生まれつきのもので、とびきり幸運なものだけがそれを手にすることができる」という感覚がなんとなくありますし、詩人や音楽家など芸術関連にあっては特にそう言われてきました。
フリードリヒ・ニーチェはそのような考え方に異議を唱え、ベートーヴェンのスケッチブックを引用します。ベートーヴェンはたったひとつのフレーズを作るためだけに、なんと60、70回も試作をしていました。何度も作り、捨て、作り、ようやく満足する―――というベートーヴェンの努力。それを一般の人々は理解しませんでした。
しかしもちろん、芸術だって遺伝子と環境の相互作用によって決まり、生まれついての芸術家などいません。ベートーヴェンだろうがモーツァルトだろうが、全員が相応の訓練と努力をしていました。
才能は、原因ではなく結果であり、プロセスをつくるのではなく、プロセスの最終結果である
訓練してもうまくいかない人は、プロセスに問題があると考えられています。何かを向上させるための努力は、決して楽しいものではありません。今のレベルを常に越えようとして、失敗することも多くあります。しかし安楽な領域にとどまろうとしないそうした「異常」な状態が生理的なシステムに影響を及ぼし、適応変化をもたらしてくるのです、徐々に……。
結論を言えば、分野を問わず、本当に傑出した技量を手に入れようとするならば、一〇年間に一万時間以上(一日平均三時間)の訓練時間を費やさなければ、それはおぼつかない。
自分の限界がどこにあるのかは、遺伝子に聞いてもわからないのです。まさに、やってみなければ、時間を費やしてしまわなければわからない……。思った以上に人間は自由であり、「やってみなければわからない」と言われて感じる不安は、突然宙に放り出されたような不安と似ています。
子どもの頃は神童で、大人になってから凡人になる、という現象が見られるのは、なまじ彼が神童であっただけに「成功体験」が失敗を恐れさせるからだといわれます。安全圏よりは外に出ないようになってしまうのです。
遺伝的に知能が優れている「天才」の研究においては、選出されたメンバーは誰もが「凡人」になっていったにもかかわらず、むしろ「天才研究から漏れたメンバー」のほうがノーベル賞を受賞してしまいました。
- 作者: デイヴィッドシェンク,David Shenk,中島由華
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