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夏目漱石と『文学論』

 夏目漱石は「文学とは何か」と問い、これを「形式」と「内容」という二つの見方で答えようとした。前者について検討したものが『英文学形式論』であり、後者について検討したものが『文学論』である。そもそもこの英文学形式論という題は編者がつけたものであり、漱石自身はこれの基となった講義を『文学の概念』と題している。すなわち英文学という例をとおして文学一般について考えることを意図しているのである。

 

 文学とはなにか、と問うのは「文学」というものが曖昧だからに他ならない。文学は古今東西さまざまな定義がなされてきた。文学の範囲ははっきりせず、人によってこれは文学だがこれは文学ではないといった境界線がさまざまなのである。漱石漢籍によって文学を学んだが、これをもってしては英文学を捉えられないことに気づいた。

 さて、そもそも文学というものは英語のliteratureを翻訳するためにあてた漢字である。これは字の通り、文の学なのであるが、作品や作家を研究する場合はともかく作品自体が文学と呼ばれているのはどういうわけか。この意味でつかわれるようになったのは1887年頃だそうだ。そこで意味の上では、創作物を「文芸」「文芸術」「文術」とし、その研究を「文学」とするのがすっきりするだろう。もちろん実際の使用は一朝一夕では変わらないのだが。

 

 これこそ文学作品だというのはどのようなものなのだろうか。文学(=文学作品)の多様さを考えるなら、いくつかの例をひいてその共通点をあぶりだし原理を導くというのは無理筋である。原理にかなわないものを論じ難く、多くの例を捨ててしまうことになるからである。そこで文学というものを「形式form」と「内容matter」に分け、それぞれについて論じ、それぞれの繋がりについて論じるという方法をとることにする。内容というのは文学の材料・素材という意味で、形式というのはそれをどのように表現するかという側面のことだ(たとえば小説、詩など)。文学作品を読んだ人がどう思うかはいろいろあるから措いておき、客観的な面について考察することにしよう。

 『文学論』は心理と社会の両面から文学を見ようとする。全体像としてはまず心理から入り、社会という集合体に向かうことになる。

 

『文学論』

凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。

文学論〈上〉 (岩波文庫)

 これが漱石の結論である。Fとは認識すること、fとは認識に伴って生じる情緒である。たとえば三角形の観念はFがあるけれどもfがない、なにもかもが怖いといった情緒はfがあるけどFがない。文学作品の内容というのはかならずF+fになっているのである。

 認識にせよ情緒にせよ、人間の意識がかかわっている。そこで精神がいかに働いているかについて考えなければならない。意識とは精神の働きのなかでも当人に自覚されること、無意識とはそうでないもののことである。漱石は意識を波のようなものと捉え、われわれがものに焦点をあてるには維持し続ける努力が必要だと考えた。つまりぼうっとしていたらそれを捉え続けることはできないのだ。そこに波がうまれる。あれを意識し、これを意識し……時間軸の上でこうした波が作られるのである。この考えをもとに、短期間の個人の波、そして一生涯の波を考える。さらには人間の共同体にもそのような波がみられるだろう。

 

 さて、Fの最たるものはやはり感覚である。触覚、温度、味覚、嗅覚、聴覚、視覚……文学作品に登場するものは実際に存在するものであれしないものであれ、感覚されうる形で表現されている。当たり前のように響くかもしれないが、このことは文学というものが「人間中心主義」的に書かれていることを意味する。人間の感覚でものを話すのであって、ダニの世界には関心がない。また文学作品には書き手の観察が隠れもなくあらわれる。さらに情緒も材料のひとつである。それ以外にも抽象的な認識も材料になるだろう(三角形で感動するやつもいる、ということに違いない)。しかし一般には、抽象的なものは情緒を喚起しづらい。

 ではいったいなにが情緒を引き起こすのだろうか。これを解き明かすことが肝心である。なぜならそれがなければ文学にはならないのだから。とはいえ、逆に考えれば情緒さえ引き起こせばラノベだろうが文学になる。漱石の文学の定義は非常に広いものである。適当な文章をもってきて情緒さえ引き起こせば文学になるのだから、広すぎるのではと心配になるところでもある。

 しかし勘違いしてはいけない。「あ」としか書かれていない文章(?)を読んで誰かが感動して泣き明かしたとしても文学とは関係がない。ここで重要なのは「作品に描かれる情緒」と「作品を読んだ読者が催す情緒」を区別することである。では誰の情緒が問題になっているのか? それは作中人物である。ただし、読者にもたらす情緒もなければならないのだが。

 

文学論〈上〉 (岩波文庫)

文学論〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 発売日: 2007/02/16
  • メディア: 文庫
 
文学論 (下) (岩波文庫)

文学論 (下) (岩波文庫)

 

 

認識と情緒の変化

 認識というものは成長するにつれて増えてくる。変化していく。これは人間の集合体、たとえば自然科学などにも言える。そして認識できることが増えれば情緒もまた豊かになる。たとえばTwitterがなければ垢消しによる永遠の別れに伴う情緒は感じられないだろう。

 さて、漱石は「情緒」というものを①読者、②作者、③作中人物の三つのものにわける。文学作品に表現されるのはあくまで③である。*1さらに情緒を別の観点から見れば、情緒には直接経験からくるものと間接経験からくるものがある。文学作品は間接的なものである。文学作品の使命は「読者の情緒を幻惑する」ことである

 たとえば悲劇の場合、読者が作中人物と同じ状況に置かれたら耐えられない。しかしそれが創作物なので、読者は楽しんで読む。読者は「幻惑される喜び」を味わう。

 文学作品は意識の流れすべてを言葉にできない。すべて書けない以上、作者は選ぶしかない。そこに創作の可能性があると漱石は見た。人によって意識を向ける先は異なる。同じものを見ても、その連想や解釈は異なる。

 科学というものは物事の仕組みを数式で書き表す。文学作品でもたとえばロケットの仕組みなどを詳述することができるが、文学の場合は物事を一般的に漏れなく説明するのではなく、あくまで作家が選び取った対象について具体的に描かれる。また文学は人によって解釈が違ってもいいが、科学の場合は人によってあまりに解釈が揺らぎ過ぎると困る。少なくとも、科学はそうした状況から統一を目指している。一方で、文学は揺らいだままでいる。そしてまた、科学も文学も対象をばらばらにして考える。しかし科学と違って文学は人が知覚できる範囲で表現する。文学における対象の描写はたとえ肉眼では見れないところであっても、比喩などによって肉眼で知覚できる範囲に表現するのである。(科学と文学。共通点と違い)➡ 以上から、科学は一般、文学は具体を記述する。一般は統一を目指し、人の目を離れようとする。定量化が重視され、どう感じるかなどは関係がない。

 

幻惑を与える文学技法

 漱石は、文学作品の内容がF+fで表されFとfは変化していくことを説明し、科学との対比によって文学がどういうものかを浮き彫りにした。

 続いて、「どのように幻惑するか」に入っていく。漱石はまず修辞学を捨てることを選ぶ。なぜならそれは表現を分類したもので、彼にとって興味のある読者にもたらす情緒が視野に入っていないからだ。文学表現において幻惑作用はどう生じるかという問題の答えを、「異なる材料の組み合わせ」に見た。

  •  投出語法 …… 人以外のもの を 人のもの にたとえる。
  •  投入語法 …… 人のもの を 人以外のもの にたとえる。

 前者はわかりやすい。擬人法などがまさにそれである。後者は少々想像しづらいが、たとえば「あの親父はタヌキだ」もそうである。要するにBを説明するためにAを使うにあたって、そのそれぞれが人のものか人以外のものかで表現法が区別されている。「コレをアレでたとえる」を分類したものといえるがこれを踏まえれば、当然ヒト以外をヒト以外で、たとえるのもあることがわかるだろう。AとBという異なる異物があるとき、そこに意外な共通性を見出し、説明する。人はここに滑稽を感じるため、漱石は滑稽的連想法と名づけた。

  •  滑稽的連想法 …… 意外な共通性によって突飛な総合をする連想法

 共通性は同じでなくても、似ているのでも良い。漱石はだじゃれを例に挙げている。

 なぜ滑稽を感じるのかはわからないが、ここではAという認識F1とBという認識F2に対して、おかしみというfが生まれていることに注意しよう。F1に対してf1が生じ、F2に対してf2が生じるのでもなく、組み合わせてはじめてfが生ずるのである。

 

 以上の表現技法は一方から一方を説明して行うものだったが、今度は並置して効果を得ることを考えよう。漱石はこれを「調和法」と呼ぶ。さきほど注意したように、今までのものはF1+F2からfが生まれていた。しかし調和法では、F1から生まれたf1、F2から生まれたf2が足し合わさり、より強力な情緒を生む点に違いがある。2f1あるいは2f2でも書くだろうか。

 倍になる以上はその二つの情緒は同種のものであるけれども、今度は異種の情緒を考えることもできる。この場合を「対置法」と呼ぼう。Aの情緒を反対に打ち消すBを与えることを「緩勢法」、効果を増すのを「強勢法」、組み合わせて新たな情緒を生みだす「仮対法」、そして両者に全く関係がなく相乗効果を与えない「不対法」の四種類がある。強勢法は調和法と通じる部分がある。

 以上までに挙げたものは材料に別の材料を加え、調理した。今度は材料をそのまま描写する、強調の技巧をこらさない「写実法」を考えることが出来る。

 写実法においてはそのまま描く。プロットなどはない。一日をそのまま描く。作家によって設計されたものはない。さきほどのものとは対極に位置するが、どちらがいいとかわるいとかはない。

 

 次は作中人物と読者の距離がもたらす幻惑である。これは今までの表現技法とは種類が異なる。「作中人物と読者の距離が時間・空間的に近づく」ことによって、幻惑の効果が表れるのである。

 まず三人称の場合、登場人物のどこを描写するかは作家の思うままである。時には性別しか記述されないときもある。一方、一人称の場合、読者は作中人物に重なる。そしてもちろん、作中人物が高校生なら、高校生の読者のほうが重なる部分は多いだろう。

 また、時間的な隔たりもある。もし語り手が過去の出来事について読者に聞かせる場合、語り手は結末について知っている。もちろん読者は知らない。これに比べて、現在形で書かれる物語は読者に近い。(「間隔論」)。

 

 各種の連想法と間隔論を見てきた。要約すれば、連想法は写実文に対する装飾であり、間隔論は誰が語り手なのかという問題である。漱石はあまり触れていないが、起承転結などの「構成」も、重要な基礎となるに違いない。

文学問題(F+f)+

文学問題(F+f)+

 

 

 

 

*1:もちろん認識のFについてもこの三つが考えられるが、そこでは主に③が考えられている。