「宗教とはなにか」が問われていない
日本においてはオウム真理教の一連の事件において、宗教というものに一挙に注目が集まった。事件の背景にあった宗教とそれに対する熱狂的な信仰がもたらした残虐な行いはマスコミにも多く取り上げられることとなったが、実のところ、「あのような狂信を生み出す宗教とは、そもそもなんなのか」は議論されていない。私たちはこれを問う絶好の機会を避けて通ってしまった。
「マインドコントロールの不思議さ」で済ました
「おかしなやつがおかしなことを言うのにおかしなことはない。しかしおかしいのは、自分の意志をまるで持っていないみたいに命令に従う信者たちである。いくら心酔している人のいうことであっても、人を殺せといわれてはいわかりましたとなるのはどうかしていないか?」
この異常を説明するために、マインドコントロールという言葉が持ち出された。これによって宗教を宗教として考える道が閉ざされてしまったのだ。
できるだけ第三者的に宗教を見よう
宗教とはなにかを知ろうとする試みは大きく二つの態度がありうる。
- 自分自身の宗教を探求すること。
- 自分自身以外の宗教を探求すること。
一番目はまさに「修行」であり、本書では二番目を取る。離れた視点で宗教を見るというのはきわめて難しく、そもそも学問成立の土壌はキリスト教の文明圏にあった。だからまずは「宗教学」に踏み入る前にその方法論、つまり使う道具をチェックしておくことが大切である。