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にんじんと読む「フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学」🥕 はじめに

はじめに

世界があり、事物があり、我々がいる。我々は世界のうちで行動し、様々なことを経験し、世界について種々の知識を持つ。(p.i)

  これほど自明なことにも、哲学は疑いのまなざしを向ける運命にある。デカルトが『省察』で行った懐疑論の爆撃は、私たちに内側と外側の区別を与え、事物だけでなくそもそも世界なるものなどあるのかと疑わせた。そしてまた同時に、内的/外的と呼ばれるときの、内的・意識・心といったものがなんなのかについての重大な問題が起こって来たのである。意識と世界というものは、そう簡単に内側と外側で二分できるようなものではなさそうなのだ*1が、では一体、そこにどんなつながりがあるのだろう?

 

 現象学が哲学的問題を挑むときのアプローチは、次のようなものだろう。

存在が問題になるにせよ、認識が問題になるにせよ、何か他の事柄が問題になるにせよ、それらがそもそも哲学的に問題となりうるのは、多くの場合、我々には理解できないことがあるという理由によるよりはむしろ、我々が自身の理解できるはずのことを十分に理解できていないからである。(p.viii)

 そこで、私たちがまさにそう思っている「常識」が成り立っているわけを、意識の側から検討する。そうすることによって、私たちの理解はより深まり、問題はときほぐれ、納得するに至るだろう。

 

 

*1:意識がある➡何かが経験されているのだから、明確な線が引けそうもなく、何らかの繋がりがあると考えるのが自然である