日本語は「自然中心の言語」 - 人間中心との対比
動詞には「雨が降る」などの自動詞と、「絵を描く」などの他動詞がある。目的語の有無でたいてい判別がつくが、「父親が家を出た」などの場合はヲ格があっても目的語ではない。なぜならヲ格成分を主語にした受身文がとれないから。
消えるー消す、沸くー沸かすという風に動詞にはたいてい自動詞と他動詞のペアがある。ここで気づくのは、自動詞が”変化”をあらわし、他動詞が”動作”を表すことだ。《ある現象を自然のなかの変化としてとらえると自動詞が使われ、人間が関わって引き起こすととらえられると他動詞が使われる》(p.58)。自動詞と他動詞のペアという観点で動詞は4グループに分けられる。(1)自他のペアあり、(2)無対自動詞=自動詞しかない、(3)無対他動詞=他動詞しかない、(4)自他動詞=自と他が同じ ex解散する。
しかしなぜ、ペアのない動詞があるのだろうか。無対自動詞はたとえば、「茂る」「光る」「熟す」「疲れる」「成長する」「死ぬ」などがある。一方、無対他動詞には「たたく」「なぐる」「ほめる」「読む」「捜す」「愛する」などがある。先述したとおり、自動詞は変化を、他動詞は動作を表す。無対自動詞は自然現象としてひとりでに生じるものと考えられるもので、無対他動詞は働きかけるものである。もし自然現象を人の手で起こそうとするなら「茂らせる」というように”使役形”にすることによって、あるいは「たたかれる」というように”受身形”にすることによって、無理やりにペアを作り出すこともできる。
日本語は「驚いた」というが、英語では「I am suprised」と言う。日本語は自動詞で表現したがる傾向にあり、英語は逆に動作主を重視する。このため日本語は自然中心の言語に分類される。しかし一方、これは日本語だけに限った特徴ではないことも留意しよう。
主役の成分によって助詞や動詞に変化がでる「ボイス」
「バットマンがジョーカーを殴った」
⇒「ジョーカーがバットマンに殴られた」
このようにガ格成分を何にするかによって助詞や動詞が変化する文法現象を”ボイス”という。前者は””能動文””というが、後者は””直接受身文””という。これを「直接」と冠するのは、
⇒「ハーレイはバットマンにジョーカーを殴られて、悲しかった」
などと、別の主体をかませる””間接受身文””があるためである。直接受身文はバットマンから「直接」影響を受けているという意味で、間接受身文はバットマンから「間接的に」影響を受けているという意味で、それぞれこうした名称になる。
間接受身文において特徴的なのは、能動文において「ハーレイ」が現れていないということである。言い換えれば、能動文において影響を受けるヲ格成分がなければ直接受身文を作れないのに対して、間接受身文は目的語のあるなしには一切関係せず作ることができるということである。このことは、英語などの他言語と異なる。
「雨が降った」
⇒ 「雨に降られて、困った」
このような発想は英語などの欧米語にはまったく考えられないものです。自分がどうする、または相手にどうされるという人間中心の発想ではなく、身の回りに起きたことで私たちはさまざまな影響を受けているという考え方ですね。そこには、人間に関わる出来事も大きな自然の流れのなかで受け止め、起きたものはしかたがないと淡々と受け入れるいさぎよさが感じられます。
事実を受け止め、それをどう感じたかをあらわすのが間接受身文!
間接受身文が出来事を受け入れ、その影響を述べるとすると、使役文は出来事への関与を表す。
子どもが部屋を掃除する
⇒母親は、子どもに部屋を掃除させる。(積極的関与)
生徒が好きなことをする
⇒先生は、生徒に好きなことをさせる(消極的関与)
- 相手との関係で形が変わる「あげる」「くれる」「もらう」
- 可能形「れる/られる」納豆を食べる➡納豆が食べられる
- 自発動詞「見える」「聞こえる」など。富士山を見る ⇒ 富士山が見える
ボイスのほかにも、アスペクトやテンスなどがあり、日本語文の「コト」を形作る。