礼儀正しさ
礼儀正しさは、すべての徳の源である。だが徳の源であるからといって、それが徳であるとは限らない。このことを説明するために、個人の成長段階を追ってみよう。新生児には徳行は見られないしそんなことが問題になることはない。乳児でも変わらず、幼児でも相当続く。彼らはやがて「禁止」を耳にする。だが彼らにはそれがなぜ禁止されることなのかがわからない。そこにあるのは事実としての「しちゃいけない」というきまりであり、儀礼的なものだ―――なぜこの言葉(下品な言葉)を使っちゃいけないの? なぜこれを持って帰っちゃ(盗んじゃ)いけないの? なぜ嘘をついてはいけないの? なぜかは幼児にはわからない。ただそうした慣習が与えられ、ともかくそれに従う。
「してみれば、礼儀正しさが徳行に先行するのであり、というよりもむしろ徳行は最初は礼儀正しさ以外の何ものでもないことになるだろう。つまり、もともと徳行とは習慣への服従であり(略)、制度化されているきまりへの服従であり、もろもろの見かけについての規範的なとり決めへの服従であり、つまるところ世間への、そして世間の流儀への服従なのだ。」
礼儀正しさは徳の見かけにすぎないが、もしこれがなければ、どうして徳があらわれるようなことがありうるだろうか。
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