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「歴史の哲学」①:歴史記述のテクストは必然的に物語

第一章 なぜ物語論なのか

 『歴史記述は物語的言語構造を持つ』。

 じっさい、歴史記述を見てみると、それ特有の表現を見出すことができる。たとえば《夏目漱石は1867年に生まれた》などもそうである。なぜならこの文は、出生した赤ん坊が1867年生まれであり、成長したときに筆名を夏目漱石とするという二つのことを視野に入れた人間にしか書けないからである。もし夏目漱石の出生に立ち会ったとしても、だれもこの文は使わないだろう。リアルタイムでは発話せず、当事者の意図や信念とは何の関係もないこの文は、当事者が知り得ない帰結を知っており、出来事を関係づけることのできる歴史家によってしか発話できない。歴史家の””認知的優位””とでも呼ぶべきこの特権は、その場で起きたことをすべて記録していく「理想的年代記(ideal chronicle)」さえも凌駕する。そこには赤子が生まれたことは書いていても、《》内の歴史記述は決して含まれないからである。

 歴史学と自然科学を同じモデルで捉えようとしたのがウィーン学団・ヘンペルであった。だが歴史的事象は因果的説明が使えない。たとえばルイ十四世の不人気の原因を外交政策の失敗に求めたとしても、外交政策の失敗をした君主が全員不人気になるわけではない。たとえすべての原因をあげつらっても、その帰結が導かれるわけではないのである。自然現象に対して法則が定立できるのはその現象が反復するからだが、歴史的事象は一回きりなのだ。因果法則を用いないならば歴史記述はどのように過去を説明するのかといえば、それが「物語」だったのである。次章ではこの「物語」について、上述した歴史記述の特有さと絡めながら分析することにしよう。