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(メモ)日本における養生思想

日本における養生思想

 日本の養生思想はまず平安時代丹波康頼(たんばのやすより)『医心方』(984年)が挙げられる。医学書としては『大同類聚方』(808年)や『金蘭方』(846年)があるが、当時の医学をうかがう観点からも医心方は第一のテキストと目されている。養生思想についてはこれより約150年前に物部広泉(もののべのひろいずみ)『摂養要訣』があったが伝わらなかった。

 医心方は中国の『千金方』を引用して、「養性できる者とは、発病前の病気を治癒させるということである」と述べ、いわば未病を治すことが養生の本旨であると書く。身体だけでなく精神や環境のすべてにわたって配慮されている。日本の医学的知識というものはほとんどすべてが中国の典籍を引用、取捨選択したものである。

 時代は大きく下って江戸時代となると、一般に養生を啓蒙する動きが出てくる。この代表的なものが貝原益軒『養生訓』(1712年)である。この養生法の基本は体内の元気をはぐくむことで、儒教風の欲望の節制をすすめる。益軒は日本風にアレンジすることもしており、中国や韓国などの人は内臓が強いからたくさん食べても平気だが、日本人は穀物や肉をたくさん食べると良くないと述べている。仏教においては白穏『夜舟閑話』(1757年)がある。

 

 

<参考>

 

にんじんと読む「恋愛なんかやめておけ(松田道雄)」🥕

恋愛ってなんだ

 著者はまず「恋愛」と、それと繋がりがある「性」に対する人々の反応のちがいを指摘する。恋愛はきれいなものだが、性はきたないものだ。つまり誰も話したがらない。

いったい「性」ってなんだろう。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  この答えはすぐに出される。すなわち『性は、人生のなかで男と女とのちがいから起こってくるすべて』である。だから恋愛も結婚も性の話だ、という。

 もちろん、この主張はそれほどあきらかなことではない。今でははっきりと公にLBGTの存在は正常なものとして認められているし、パートナーシップ条例等、結婚が異性間の婚姻だったのは過去のものとなりつつある。どの人間にも性というものがある以上、恋愛と結婚を特別に性のものだと包含する必然性はない。少なくとも、恋愛や結婚から性を特徴的なものとして抽出することはできないだろう。

 だからむしろここでいう「性」とはその時代における「オスらしさ/メスらしさ」を指摘したものであり、この主張を時代的文化的な特殊背景を反映したジェンダーを原因として生じてくる現象が恋愛や結婚だ、としてこれを捉えるのが妥当なところだろうと考えられる。

 そこで考察は、いわゆる「ふつう」の状況である異性に対する意識に向かう。そこで取り扱われるのはとりわけこの意識が強い作家という職業者である。

 

『大型の被布の模様の赤き花今も目に見ゆ六歳(むつ)の日の恋』石川啄木

 

 異性に対する意識というものは年齢を問わなかった。つまり「恋愛現象は年齢に依存しない」ということが指摘される。著者は啄木の例を、異性を異性として意識することができなければこうした現象は起こらない、の傍証とする。

 さて、こうして起きてくる恋愛というのにも、実は価値階層がある。恋愛というのは『人間の生き方、人生』であるという。何が言いたいかというと、その人がどれぐらい真剣に生きているかに応じて上等と下等の恋愛がわかれる、ということだ。つまり「個性」というものが恋愛には影響してくるといっている。

 この主張は新しい観点である。つまり恋愛の発動に必要なものは「オスらしさ/メスらしさ」に対する意識=異性を異性として見る意識であるが、恋愛というものは「その人らしさ」が大いに影響すると書いている。

だけど、週刊誌にわんさとのっている恋愛小説と称するものは、どれをみても一様だ。人間はみんなエッチで、だれもかれもがそこに書いてあるような「恋愛」をしたがってるみたいだ。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  恋愛はセックスだけだといってる人間が一番下等である。そこには「その人らしさ」「その人間らしさ」がすっかり取り除かれているからだ。いま、ひとつの次元として個性の「浮気←→本気」がある。恋愛といえばセックスだと思っている人間が恋愛の最下層に位置付けられたわけだが、上等だとされる恋愛というものがどんなものだかはっきりしない。はっきりしないので作家は恋愛について書き、市民は恋愛物語を読む。

 しかし話はまだ最下層に留まる。ここにはまだ語るべきことがあるからだ。

 ここでひとつ注意しておかなければならないのは、「恋愛=セックス論者」であっても、この理論はそれを恋愛であるとは認めている点だ。ただ下等なだけだ。この利点はこういった「それは恋じゃない!」と批判されそうなものを含むことによって、理論内部でそれを取り扱うことができることである。例外、異常な例として処理しないで済む。恋愛というのは異性を異性として見ることで、ともかく『相手に近づきたい』と思うことだ。

 

 

 本気で恋愛をするということは、とてつもない危険に足を踏み入れるのと同じことだ。それは相手がどう思っているかわからないということでもあるし、『恋愛にはおまけがつく』からでもあるという。この恋愛のおまけを無視した恋愛なんていうものは浮気の恋愛だといい、踏み込めば踏み込むほど、つまり本気に傾けば傾くほど、上等になればなるほど危なっかしくなる。

 実は「恋愛=セックス」だけが浮気恋愛というわけではない。別の例としては『恋愛のおまけ』を完全に忘れ去っている「恋愛至上主義者」がいる。つまりこういうふうに考えることができるかもしれない。恋愛というものをいま二次元的に表示すると扇形になっていて、一番カドのところに「恋愛=セックス論者」と「恋愛至上主義者」がいる。ここで扇形のカドを原点にして、『人間らしさ』の縦軸にむかってひろげてみよう。理論的に、上の二つはまったく異なる二つの種だ。「恋愛=セックス論者」は縦軸も横軸もなく、一次元的なものの見方しかできない。しかし「恋愛至上主義者」は縦軸を認めるものの、横軸である『恋愛のおまけ』が認められない。だから扇形ではなく、一本の細い棒になってしまう。

 

 それでは恋愛のおまけとはなにか。

 恋愛というのは相手があって成り立つ。そして上等な恋愛というものは『自分が自由に相手をえらんだという気持ち』が大事になってくるのは、これまでの議論から明らかである。たとえば脅迫して一緒にいるような恋愛はその「自由」がない。逆にいえば、少しでも上等な恋愛を欲するなら、相手の「自由」を受け入れなければならなくなる。相手を相手として受け入れなければならなくなる。

 しかしこの自由は、相手に受け入れてもらったら必ず成功するわけでもない。『恋愛をする自由』は適切に行使しあっていても、「自由」はほかにもたくさんある。つまり、二つの個体がいっしょにいるというのはむずかしいことで、努力してそれを築き上げ、築き上げ続けなければならないものだ。社会情勢ということでもあるし、その他自然現象とか、生計とか、いっしょにいられない理由がたくさんある。

好きだというだけじゃだめなんだ。ほんとに好きだったら、好きになることをじゃまするものをたたかわなければならぬ。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  ここに、本気と浮気の区別も出てくる。浮気な人間は絶対に戦おうなんて思わないし、戦うぐらいなら恋愛を捨ててしまう。

 

 

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

しごとと人生 1 (ちくま少年図書館 33)

 

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

  • 作者:松田 道雄
  • 発売日: 1995/12/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

 ここまでの内容をまとめておこう。

 恋愛というものは年齢に関係なくジェンダー=「オスらしさ/メスらしさ」によって起動し、それぞれの個性というものによってその価値に順序が生じる。個性とはつまり、その人の生き方や人生でありどのぐらい本気か、どのぐらい真剣かということだ。

 最下層に位置付けられるのは、その人らしさを認めない「恋愛=セックス論者」が典型的であるが、一方で『恋愛のおまけ』を認められない「恋愛至上主義者」もある。恋愛のおまけとは、双方の自由によってお互い接近し接近し続けることを阻害するものとの戦いである。

  とはいえ、恋愛へのコミットメントの深さ(いわゆる態度。本気と浮気)と、その人たちの性質としての個性=その人間らしさとは異なるカテゴリーに属する。この点をもう少し整理し直す必要があると思う。また、恋愛というものの位置づけも、接近欲求なのか、その人の生き方・人生なのかという点がいまいちはっきりしない。

 

『恋愛ってのはとても好きになっちゃうことだ』

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

 

 そして好きになるというのは『近づきたい』という気持ちだ。

 だからやはり恋愛というのは『おたがいに、できるだけ接近したい』こと、『いつもそばにいてほしい』ことになる。この始動に深く関わるのが性(ジェンダー)だ。そして『やすっぽい生き方』『本気』(その人間らしさ)に対応して、恋愛に対する態度が決定される―――「恋愛」「ジェンダー」「個性=人間らしさ(浮気vs本気)」「態度(やすっぽいvs本気)」

 二人の異なる個人がいっしょに居続けることは困難である。まず相手も自分を好きになってくれなければいけない。ふたつめ、いっしょに居続けることを邪魔する障害と戦わなければならない。ひとつめを放棄し相手の個性を認めないもの、一緒にいるための障害と戦う気がない人は上等な恋愛ができていない。相手の自由を重んじず、自らの要求を実現するための努力が中途半端である人間の生き方と相応する。

 

 

 以上踏まえて、歴史的経緯に入っていく。

 このあたりがこの本のおもしろいところなので、是非読んで欲しい。

 

恋愛だと相手が自由にえらべるという考えはすてねばならぬ。

恋愛なんかやめておけ (朝日文庫)

 

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

にんじんと読む「知っておきたい日本の名字」🥕

 今回の本はこれ。

 

日本の名字

日本の名字

  • 作者:森岡浩
  • 発売日: 2015/03/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 邪馬台国の頃、つまり中国の歴史書に記されている日本人外交官の名前は『難升米(なしめ)』『都市牛理(としごり)』であり、姓はなかったようです。しかしその当時から中国には姓名があり、日本にも姓をもった「氏族」が登場します。当時の日本は大王家を支える連合国家であり、大王家は役割に応じて姓を与えました。役割由来だけでなく、土地由来あるいは渡来人にあてた姓もあります。物部氏(もののべうじ)は兵器担当、出雲氏(いずもうじ)は土地に由来しています。

 大王家とはつまり天皇家のことですが、天皇には姓がありません。天皇は姓を与える側だからです。しかし血縁者全員を皇族にするわけにいかず、臣下にする親戚には姓を与えることにしました。それが「平(たいら)」「源」「橘」「藤原」などです。彼等はもちろん大きな力を持っていたので、古代の氏族の姓は徐々に減っていきました。

 それにしても、姓はグループにつけるのでたとえば藤原氏がでかくなりすぎると誰が誰やらわかりません。朝廷は藤原氏だらけだったこともあります。そこで天皇が与えた姓だけではなく、自分でつけた名字を名乗るようになります。ちなみに「源頼朝(みなもとのよりとも)」は姓+名前であることがわかります。なぜなら間に「の」が入っているからです。「徳川家康(とくがわいえやす)」は名字+名前ですね。

 名字としてわかりやすいのは地名由来です。藤原家で九条通りに住んでる人は「九条さん」などです。さて、地名でわけてもわからんとなると、地形で呼び合うようになります。山のふもとに住んでいれば「山本さん」、中腹ならば「山中さん」、川に近けりゃ規模に応じて「小川さん」「大川さん」などなど。それでも無理だと上下・奥・前・方位なども名字に使いました。「乾(いぬい)」さんは方角名字のよくある例です。これらは本家からどの方向にあるかということで決められました。あるいは職業からつけたものもあります。

 というわけで正式に名乗ると日本名はけっこう長いわけです。たとえば徳川家康は成人したときは「松平次郎三郎元信(まつだいらじろうさぶろうもとのぶ)」で「名字+通称+名前」でした。後で家康という名前に改めますが、征夷大将軍になると武家に与えられる姓が必要となり源氏、そして源氏ゆかりの名字である徳川に変え、「徳川次郎三郎源家康」となりました。新しく「通称」というのがでてきましたが、長男か次男かといった相続関係を明確にする記号です。

 

※ちなみにアメリカの名字は「~ソン」というのが多く、ジョンソンなら「ジョンの息子」と言う意味です。これと同じつけ方はロシアにもあり「~ビッチ」というのはそれです。

※存在しない幽霊名字として「春夏秋冬(ひととせ)」などがあります。

にんじんと読む「なぜ今、仏教なのか Why Buddhism Is True(ロバート・ライト)」🥕 仏教の真実一覧

仏教の真実一覧

「真実」としてここにあげたものすべてが仏教の教義とはかぎらない。むしろ仏教思想から得られる教訓や示唆に近いものがある。しかしいずれも、神経科学や心理学をはじめとする現代科学、なかでも人類の心が自然選択によってどのように形づくられたか研究する学問である進化心理学による十分な裏づけがあると考えている。

なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学

 

 にんじんなりにこれを嚙み砕いたり、要約したりしてみよう。

 

 ① 人間は世界を明晰に見られないことが多く、それが原因で苦しんだり、ほかの人を苦しめたりすることがある。世界についてこのように代償の大きい謝った理解はさまざまな形をとり、以下のように仏典によってさまざまに触れられる。

 

 読み飛ばしてしまいそうだが、ここで大事なのは「世界を明晰に見られないこと」が原因だという点だろう。苦しみは世界を明晰に見ていないがゆえに起こる、こちら側の問題なのである。

 

② 人間は目標を達成することで、長つづきする満足が得られると期待しすぎる傾向がある。

 

 これを自然選択によるものだとしたのが、この本の第一章の内容であり見事な要約になっている(つまり精読の必要はあまりない)。どういうことかというと、「目標達成」に伴う快楽を準備していた種のほうが生き残ってきたということだ。そして「その快楽は長続きしない」ことも。人は快楽を求めるが、そう求めるように長い時間をかけて進化してきたのである。それは失いやすく、人はまた快楽を求め、また失い、また求める。

 

③ ドゥッカ(不満足=苦しみ)は人生に浸透している。

 

 ②から明らか。おおむねいつも不満足になるように設計されているのだ。

 

④ 『四聖諦』で明らかにされるドゥッカの原因(タンハー)は、進化心理学を背景にすれば、好ましいものへの執着と好ましくないものから逃れたいという忌避から成り立つ。忌避に関連する苦しみを消し去れば、たくさんの苦しみが消える。(第13章)

⑤ 人間は④で言及した執着と忌避に服従しがちな傾向を、瞑想法によって弱体化できる。永遠の解放をニルヴァーナといい、到達可能かは意見が分かれる。誤解してはいけない。執着と忌避から逃れたからといって、感覚が鈍くなるわけではない。むしろ、感覚との関係が改まることで、美や畏敬、思いやりなどの特定の感覚が研ぎ澄まされる。

 

 最終的な目標はやはり悟りであるが、そうでなくとも、やる甲斐はある。

 

⑥ 自然選択はいろいろな種類の感覚を人間に組み入れた。私たちはそれを「私のもの」と無批判に同一化してしまう。瞑想を通じて反射的な同一化を避けるようになれば苦しみが減るだろう。

⑦ 自己は存在しない。あなたを統御するCEO自己は存在しない(心のモジュール仮説)。

 

 複数の自己については、だれもが偽善者になる本当の理由なども参考になる。

 

⑧ 「自己の境界が消え、はじめからある意味で幻想だったように感じる経験」については実験的にも理論的にも裏づけが得られていないし、裏づけは困難である。

⑨ しかし道徳的正当性に関していえば、自己とほかの人の利益の順序づけがあいまいになるため、進化生物学的には支持される。

 ⑩ ものにはその本質があるという「本質主義」は錯覚である。本質主義は相手の苦しみを黙認したり相手を故意に苦しめたりすることに繋がりかねない。

⑪ だからこそ、そのような錯覚のうちにいること、つまり世界を明晰に見ないことは自分自身の苦しみに繋がるだけでなく、他者をいたずらに苦しめる。

⑫ 多くの仏教の教えは「条件づけへの気づき」という項目でひとまとめにできる。瞑想は条件づけに注意深くなることで、その影響パターンを自覚し変える力を与えてくれる。

 

 

 ニルヴァーナには因果から解放されるという意味と、それによって輪廻から逃れるという二つの意味がある。人の脳は自然選択によって飛び込んでくる入力にある程度反射的に反応するように設計されている。この支配の要となるのが快と不快だ。快を求め、不快を忌避する傾向にまかせるなら、まわりの世界に支配され続けることになる。瞑想はそうした条件づけを一歩引いて見ようとするものである。

 マインドフルネス瞑想は「判断しない」ことを目指す側面もある。つまり、『自分の感覚に無思慮によし悪しのレッテルをはることをせず、感覚から逃げ出したり性急に受け入れたりしない』。だからこそ、理性が働くこともできる。自分の感覚に無関心すぎるせいで感覚に振り回されることがないようにできる。私たちはある意味、自然選択という巨大な敵を相手にしている。悪者ではないが、彼は生命体の遺伝子を運ぶことに興味はあっても個人の幸福には興味はない。

 

 

 

にんじんと読む「哲学がはじまるとき(斎藤慶典)」🥕

 

第一部 思考

思考とは反復であり、反復の中核をなすのは偏差(ずれ)である。

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

  反復とはだんだん付け加わっていくということで、偏差というのはいわば「世界のずれ」のことである。これは「当惑」(えっ?)としてあらわれる。これが直接、「問い」(どうして?)に繋がるのだ。この問いとは、さしあたり不満足ななにかであるといえると思う。

 問いにはいろいろの形がある。不満足を解消するものはまず「根拠」と呼ばれるものだろう。けれど、それほど確かなものではない。ただ不満が解消されればいいのだから。そもそも根拠なんていうものは、そのレベルを出るものではない。たとえば毎日川に出かけていていつも見かけた動物がいなかったらあなたは当惑する。なぜだろうと思う。ふと見ると上流のほうにいた。移動したのだ。これで満足が解消されればそれでいい。しかしもし、その動物で生計をたてているなら、もっと決定的な根拠を求めなければならない。問い直さなければならない。

  •  また私たちは何かと相対したとき、その処置をある程度心得ている。あれはなんだという問いは、たとえばクマであるなどといった答えを求めているのである。これは「本質」といえる。よくわからないものに対する処し方もあるが、目の前にいるものがタヌキかクマかで命を左右する場合は不満足を解消するのはなにより大切だろう(害意があるもの、ないものという区別等々)。また「構造」についても、不満足を解消するものとなろう。どういうふうにこういうことになったのか。どういう作りになっているのか。そのようなことである。

 そのものの本質がそのものをそのものとする根拠であり、そのものの構造がその本質のあり方だというならば、私たちにとって最も大事なのは根拠の問い(理由・原因・目的)であることになる。私たちはどうしてもその不満足を解消したいと願い、できるならすべての問いに答えがあればと願うのだが、現実はそんなことを少しも保証してはいない。

 問いによって何ものかがそのようなものであることがわかる。この理解したところを私たちは「意味」と呼んでいる。学校に行く意味はなにか―――勉強のため、社会性を身に着けるため、友達のため。挙げられる根拠はすべて””それなり””のものであることがわかる。日々の営みにはこのような意味がたくさんくっついている。だからこう思うのだ。「じゃあ、生きることそれ自体には意味があるんだろうか?」

 なんにでも意味があると思い込む哲学の病気を指摘したのはニーチェだった。人間は無意味というものに耐えられない。だから神などというものにすがり、自分の存在を支えてもらおうとする。ニーチェのいう超人とは、この無意味性に耐えられる人間のことを言うのである。

 

 では、思考とは単なる彼岸にわたるためのはしごに過ぎず、捨て去らなければならないのだろうか。だが一切の意味を捨て去った時、そこに残るものとはいったいなんなのだろう。もう一度考え直さなければならない。

 

 何ものかが何ものかとして現れることそれ自体を「表現」と呼んでみよう。私たちはまず五感などの感覚によって表現を得、世界というものに触れている。そして問いとしての思考は、この表現に新たな次元をひらき、表現を表現する。つまり世界というものをあらためて、新しい形で、表現へともたらすのである。思考には数学のように形式的なものや、神話のように意味を語りだしたり語り直すものもある。小説や詩も精密さや厳密さとは異なった仕方で表現を反復する一つの仕方である。

 神話や神を信ずるのはそれが信ずるに足る根拠を持つからではない。それを信ずることによって、すべてが理解可能となるのである。注意しなければならないのは、「理解可能になるから信ずる」のではなく、「信ずるから理解可能になる」ということだ。絶対根拠としての神はそれ以上遡るものをもたない。

 ニーチェは人間が無意味に耐え切れずに神に逃げたというようなことを言ったが、一面においては正しい。しかしそこで思考を放棄するのではなく、どの地点まで行けば問いというものが無意味になるのか、その限界まで思考してみなければならないのではないだろうか。それを怠ったからこそ、中途半端な絶対者を人々に許させたのではないか。

 科学は確かさを求め、問いの対象について細かい部分を無視したり何かが正しいことを認めたりしながら、それの上に体系をくみ上げてきた。重力というものがあると確信し、それがいかに働くかを記述したのがニュートンの取り組みである。あるいは””かたち””について知るために、雲だとか曖昧なものは除外し、明確な決めごとを考えたユークリッド幾何学がある。しかしもちろん、その前提はやがて問われ、堀り進められることになっていく。哲学は多様な問い方を一旦保留し、ある程度の限定を与えることで科学というものにものの考察を分けてきた。いま哲学の名で思考されているものは、科学のように問いの対象をうまく限定できないもの、これまでうまく答えることができなかった問題だ。

 

 

 

 

第二部 世界(途中まで)

 途中から何を言ってるのかよくわからなくなったため、止まってます。

 

 

 形而上学とは、世界、つまり「すべて」をあるがままに理解しようという企てである。哲学はそのはじまりから『世界の根源(アルケー)とは何か』と問うた。これはつまり、『世界は、なにからできているのか?』ということだ。哲学者たちはいろいろ考えてきたが、そこで「モノ」を考えてしまうと、じゃあそのモノは何からできているんだという話になる。今では恐ろしく小さい素粒子にまで分解されてきたが、つまりアルケーとは測定技術と相対的に定まることになってしまう。この遡行がどこかで停止するとすれば、それはもはや「モノ」として答えられるものではない。

 アナクシマンドロスはそれを「無限定なもの」(ト・アペイロン)と答えた。

 彼はそれを「もの」と呼んでいるが、もはや物質ではない。それは『万物を、それぞれの規定性・限定性のもとで存在するにいたらしめるある動向、すべてを何らかの「もの」として存在せしめんとするある趨勢のごときもの』である。だからある種、「力」のようなものだろう。存在者を存在せしめんとする動向なのだから、これを「存在」と呼んでもよかろう。かくして世界の根源への問いは「存在」へと到達する。アナクシマンドロスは無限定なものを存在とは名づけなかったし、これ以降思考することはなかった。なぜならそれが万物の根源ならば、それについてもうなにごとかを語ることはできないはずだからだ。

 歩を進めるは、エレアのパルメニデスである。彼はアナクシマンドロスとは別の道筋で、根源に「モノ」を持ってきても無駄だということを理解していた。「存在」は五感や感情によって捉えられるものではなく、ただ私たちの思考に理解されるのみである。彼は言った。「あるはあり、ないはない」これが世界のすべてに妥当する形而上学存在論の先駆である。

  •  存在は不生不滅である。
  •  存在は分割不可能である。
  •  存在は不動である。

 このように言えるだろう。あるはないには変わらないし、あるでないものはないである。動くためには存在のなかに存在以外がなければならない。

 

 存在の根本命題「あるはあり、ないはない」からは私たちのよく知るモノはどこにも見当たらない。ひとつの花瓶を見るということは、花瓶以外のものを取り去ることでもある。花瓶は花瓶として、そして植物でも空気でも土でも時間でもないものとしてそこにある。つまり「ある」の中に「ない」が介入しており、それは虚妄なのである。

 だが、私たちは毎日何かを見る。それが虚妄だとしても、その事実は世界が「存在」だけから成り立っているわけではないことを示唆してはいないだろうか。存在の論理からすればありえないような途方もないことが起きているのではないか。それに気が付いたのはヘラクレイトスだった。

 

 何かが生じるためには「あるはない、ないはある」というような状況が必要だった。パルメニデスが何かを拒否したのは、「ない」ということは徹底して「ない」はずだからである。具体的に何かがあるということは、否定が混入しているということだ―――ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言った。つまり、時間という事態の内に生成消滅を見て取った。生成とはつまり「かつてなかったものがいまある」ことで、消滅とはつまり「いまあるものがいずれなくなる」ことだ。過去や未来という仕方で「ない」が混入する。

 

にんじんと読む「生命と自由(斎藤慶典)」🥕 第三章

第三章 間主観性と他者

 超越論的領野とは、すべてがそこにおいて姿を現わす場所である。なにかが存在するためには現出が必要であるがその場こそが超越論的領野であり、ここが最終的な地点である。これは個人の心というレベルの話ではない。

 しかしフッサールはこれを「超越論的主観性」と呼んだ。それは、何ものかが何ものかとして姿を現わすことの直接性・端的性を示すためだった。とはいえ、ミスリーディングではある。私が何かを見ているから姿を現わすのではなく、端的に姿を現わしているからこそ私が何らかの仕方でそこに居合わせることができるのである。現われの端的性に特定の人物としての私が重ね合わされる。この重ね合わせがあまりにも瞬時になされるため、同じものとして受け取られてしまう。私たちは重ねることに慣れ過ぎているのである。

 超越論的領野における現出は、間主観的な仕方で構造化されている

 まず、何ものかが姿を現わす。たとえば机だ。しかしその机のすべての側面が現象しているわけではない。少し視点を変えるだけでまったく違う机の姿が現れるだろう。机のさまざまな側面はそれと相関する特定の観点と結びついており、その特定の観点の内に位置付けられる。そこにあるのが私だ。私の身体だ。だがそれが私のものであるためには、他のこころと区別できているのでなければならない。もちろんできているだろう。別の観点に立ちうることのその可能性を理解することは、今まさにこの観点にいる特別な身体と結びついている。もちろん他人のもとでどのように現象しているか、私自身が確かめるすべはまったくない。これは原理的に無理である。大事なことは今現象している机の側面とは別の側面における机が、まさに同じ机であるということだけなのである。

世界の内に存在する知覚対象(たとえば、本書をその上に載せているこの机)は、直接性において現象する諸側面と、そのような直接性においては現象していない他の諸側面の双方を通じて、それらの諸側面をおのれの諸側面としてもつ同一の対象として姿を現わすのであり、直接性において現象しない諸側面の内には、他人の下での現象という定義上決して直接性において現象しないそれらがあらかじめ織り込まれているのである。

生命と自由: 現象学、生命科学、そして形而上学

  いわば他の観点に居合わせるであろう「もう一人の私」が他人なのである。中心にいるのが身体なのであるが、もちろん、身体とはこころではない。こころは身体のどこにあるのだろう。どこまでが私なのだろう。昔から言われているように、髪の毛や爪、皮膚どころか、細胞は毎日のように入れ替わっている。

 事情は逆だったことを思い出そう。こころがあり、そしてものがある。私たちはこころというものを身体というものに帰属させているのである。だから手がないのに痛みを感じたり、あるいはラバーハンドを自分の手だと錯覚するような実験が成り立つ。何らかの事情や条件のもとで「私」の領域は変化する。この重ね合わせに極端に失敗したのが種々の精神疾患である。

 

心という難問 空間・身体・意味

心という難問 空間・身体・意味

  • 作者:野矢 茂樹
  • 発売日: 2016/05/27
  • メディア: 単行本