本日のテーマは「尊厳死」です。
延命させて苦しませるよりはそのまま亡くなったほうがいい、といったような議論はこの頃、というより前からよく言われています。根本的治療ができない病気などは、ただ進行を遅らせることしかできません。
Twitterでもたまに話題になりますが、オランダでは書類を出せば安楽死させてもらえます。本を読んだところによると、オランダには国民一人ひとりにかかりつけの医師がおります(いないと健康保険に入れないんだとか)。安楽死を望む患者はかかりつけ医にそのことを伝え、別の医師とのカウンセリングで自分の希望を明確にし、所定の手続きを済ませ、かかりつけ医によって安楽死を迎えます。(オランダ「要請による生命の終結および自死の援助審査法」)
ちなみにオランダの場合は不治の病だとかじゃなくて、生きるのいやだなと思ったらかかりつけ医に「安楽死します」ということができます。かかりつけ医が致死量の薬を投与することもあれば、本人に処方することもあります。しかし圧倒的に多いのは医師の手によって、命を断つパターンだそうです。
どれぐらい差があるのかというと、医師安楽死が2.8%で、自死が0.2%という感じ。1000人いたらおよそ28人が医師の手で、そしてわずか2人が自分の手で人生を終えている割合です。安楽死が法制化されているオランダでも「案外安楽死する人少ないな」という感じではないでしょうか。そちらを選ぶ人は、少数派なのです。やはり、死ぬことを感情が拒否してしまうのでしょう。
ところで「医師による死」と「自分の手による死」を比較した時に、まずなにより思うのが、「あぁそういえば医師が手を下すことになるんだったな」ということではないでしょうか。
安楽死安楽死と言葉にすれば安楽に死ぬだけという感じがしますが、そういえば手を下す人がいるんだなと思い出します。
繰り返すが、自分でやらずに人にやってもらうことを、自己決定する権利があるとはいえないだろう。頼むのは自由かもしれない。だが実行させる権利まではない。
オランダのかかりつけ医たちにも、実は「断る権利」があります。そのとき、自分の手による死が選ばれるのでしょう。しかし、先ほど見たように割合は多くありません。
日本にも尊厳死に関わる法案が公開されています。出しているのは「尊厳死法制化を考える議員連盟」です。
これは患者が望めば、延命治療をしないことができる法律案です。
(免責)
第九条 第七条の規定による延命措置の中止等については、民事上、刑事上及び行政上の責任(過料に係るものを含む。)を問われないものとする。
わたしたちのほとんどは「苦しんで生きるぐらいなら」と普段は言っています。でもいざそのときになった場面を想像すると、やはり「延命しないで」と言うことに恐怖を感じるのでは、と思います。
わたしたちは自分の命をどう考え、どう自己決定すればいいのでしょう。
最近自殺のニュースが多かった
Twitterにいるせいかなんだか最近「自殺」とか「死にたい」とかよく聞くようになりました。これを書いている日にも、どこかの踏切に学生が入り込んで自殺したというニュースがありました。そういえば、梅田で飛び降りた女性もいましたね。あれもかなり話題になりましたが、今はすっかり落ち着いているようです。
自殺は悲しいことだ、と書き込んだ人がSNSで叩かれているのも見ました。
お前に苦しみがわかるのか? 生き延びたあとの生活を保障してくれるのか?
まったく同一の境遇に置かれた人間は自分以外に存在しないわけだから厳密にいえばわかりません。そこまで厳格でないとしてもわかるための基準がない以上、どうとも言えません。異次元に存在する時計・キャロッ時計が今何時かわかるかと言われているのと同じです。そして「悲しい」と言っている人に「苦しみがわかるか?」と言う人は「悲しみがわかるか?」と訊かれたらなんと答えるのでしょうか。
それはもちろん「わからん」でしょう。わからなくて当然です。
にんじん自身は、自殺は悲しいことだと思っています。
ただ、飛び降りた人の気持ちはわかりません。もしかしたら滅茶苦茶いやなひとかもしれませんし、死なないでほしい人だったのかもしれません。彼又は彼女らについてにんじんはどういう情報も持っていません。でも自殺は悲しいことだと思う。この二つは両立しえます。なんというか、二つはカテゴリーが違います。大学が嫌いだという人が大学の施設の一つである大学図書館を必ずしも嫌いなわけではないのと同じです。
にんじんがみなさんに「ぼくの知人の山田氏が自殺したんですよ」と言ったとして、山田氏の死を悲しんでくれるとは到底思えません。山田氏について皆さんは何も知らないからです。まぁ、第二の理由としては山田氏なんてもともといないからですが。でもみなさんはそれでも、「そうなんだ・・・」と悲しくなることはできます。山田氏のこと何も知らないくせに、とはにんじんは言いません。知らなくて当然です。二つの意味で。
自殺は本人が好きでやったことだ、というのも見かけます。
「〇〇を好きでやる」という言葉が問題になります。たとえばドラクエ5でパパスはじっとしてゲマに殺されますが、彼は好きで死んだのでしょうか。そうだとも、そうでないともいえるでしょう。自分の命よりも息子の命をとるという意味でパパスは爆殺されたわけです。でも一方で、本当はゲマを倒して息子とヘンリー王子とペットを連れて帰りたかったでしょう。その意味で、好きで死んだわけではないと言えます。完全に近い形で「好きで死ぬ」という状況がいまいちにんじんには想像できないのですが、好きで死ぬというのはどのレベルの話なのでしょうか。
パパスだろうがなんだろうが、すべての行動は最終的には自分の好きでやったことだという場合は、その通りなのでなんとも言えませんが、街を歩いてたらいきなり危険なBOYS😎にタコ殴りにされて財布差し出したとして、「あれは俺の意志だよ」と言えれば大したものです。
「いや、財布を差し出したのはたしかに俺の意志だが、カツアゲに遭うのは俺の意志ではなかったのだ」ともいえます。しかしそうであると、自殺した人がそれ以前にカツアゲに相当する様々な出来事A,B,C…に遭遇したことも不本意である可能性が出てきます。たしかに自殺したのは好きでやったことにはなってるのですが、もはや「財布を好きで差し出した」と「財布を差し出した」が同じ意味になっています。ただ言葉を長くしただけです。
自殺に関係した主要な動機(それがなければそれには及ばなかっただろうと推定されるもの)を調査し、それを防ぐようにしておくのは自然なことです。どういう定義のもとで好きでやろうが、やるまいが。