第一章 自然種論の系譜
あなたの家ではポチを飼っている。隣の家ではタローを飼っている。なるほどこれは間違いないと誰もが納得するのだが、少々意見の割れることがある――――彼らのことを一括りに「犬」と呼んでもいいのだろうか、と。
われわれがポチやタローを犬とまとめて呼ぶのは単に人間都合の便宜上のものにすぎないと考えるのが〈規約主義〉であり、それとは逆に、人間が世界の側にそうした区別を押し付けたわけではないんだよと主張するのが〈実在論〉である。ここまで聞くと明らかに規約主義のほうに分がある。なにしろ、実在論者が主張するところの「種は実在する」という言葉の意味が恐ろしくわかりづらいから。この世界のどこを見回しても、ポチやタローはいても、「犬そのもの」なんてのはどこにもいない。きわめて当たり前のことである。
実在論者としては「種というものは実在しており人間はそれに合わせて概念的カテゴリーを得ようとする」と言う。一方で規約主義者は「種というものは人間が都合に合わせて勝手に決めるものだ」と言う。この対立で規約主義者に分があるように思うのは、たとえば数学の集合論が頭にあるからかもしれない。四本足で体毛が青色のものをスポポイと呼んだり、あるいはもっと単純に九月一日を三四郎の日と名づけたり、取り決めるならいくらだって言葉が生み出せるから。なぜ「金Gold」というものが世界の側に用意されていたと考えなければならないのだろう?
そこを理解するために金Goldについて考えてみよう。最初は恐らく色や光沢などわかりやすい部分を見て「金だ!」と言ったりするに違いない。これによって集められた金のサンプルをいろいろ調べるうち、たとえば展性、熱伝導性、融点など色々な面がわかってくる。そしてこれに基づいて、どうもこれは金だと思っていたが金ではないぞ、ということも見えてくる――――これは金についての取り決めを変更したのと同じだろうか? たとえば記念日を何日から何日に変更するのといったようなことと同じか? そうではないだろう。
【自然種は実在する】
ワポポポイという謎の種を勝手に取り決めることもできる。しかしそれはわれわれが勝手に決めただけで、それはもともと世界の側に用意されていたものではないだろう。だから規約主義はそういうケースにおいては正しい。しかしそれがすべてというわけではない。
実在する種を自然種と呼べば、自然種とは次の三条件によって特徴づけられる。:
そもそも金Goldを金として見つけ出すためには、色や光沢といったいろいろな特徴がほとんど変則的なものであっては困る。時には黒ずんでいることもあろうが、たいていの場合それは共通しており安定しているのである。それが探求の出発点ともなる。/これまでトラといった生物種はそこに属する個体が共有しているものを指摘しようとする場合が多かった。そこで注目されたのが遺伝子であったが、同じ種に属するトラであってももっている遺伝子は変異しており共通していないこともよくあるのだ。しかしトラに特徴的な性質のまとまりが安定性を示していることでわれわれはトラを捉えることができる。ただし生物種の場合、この恒常性はモノよりも柔軟であり、時にはアルビノのような真っ白の個体を発見することもある。しかし性質群としての恒常性は成員全体に厳密な一様性を強いない。あくまでも一定の範囲で性質が一群となって出現することが満たされればよい。
第一の条件が全体として安定したまとまりをなしているといっているのに対して、第二の条件は個々の性質について法則なり一般化が成立していると述べている。カラスはたいてい黒いし、トラは黄色地に黒い縞模様がある。水の場合であれば一気圧100℃で沸騰するのだ―――そして重要なことは、これらが全くの偶然に起こっているのではない点である。
それを説明するのが第三の条件「メカニズム」である。なぜ水が100℃で沸騰するのかなどの個々の性質、そしてその性質群が安定的であることはH2Oという微細構造によって説明される。もし水がそうした構造をもたなければそもそも水がそうした性質をもつものたちとしてあらわれてはこなかっただろう。このメカニズムという第三の条件が、自然種というものが「雑多な寄せ集め」ではなくなるきわめて重要な要件になっているのだ。
第二章 理論的問題
前章で示した自然種の特徴づけは、それぞれの自然種ごとに程度差を許す。たとえばトラという生物種にあらわれる諸性質は、その種に属するすべての個体に常に出現するわけではない。性質のまとまりとしての安定性には強弱が見られるのである。実在性というのはメカニズムなどを含めた理論的統一性のことだといえるのだが、そうすると実在性にも強弱があることになる。
だが実在性に強弱があるというのはおかしいのではないか。問題があるのはあくまで理論のほうで、実在は実在としてはっきりあり、そこに程度差はないはずだ。
まず理論的統一性が低いとしよう。ただし、ここで問題になっている統一性の低さは、経験的探究が十分に成熟した段階でのことである。もしも理論がまだまだ未熟のときに統一性が低いとはいっても、研究する余地がまだあるよねという話なだけで、実在性の話とは何の関係もない。まだ一丁目しか行ってないのに町のことがわからないといっているようなものだ。
成熟した段階での理論的統一性の低さについて、やはりこちらとしては「実在性が低いんだね」と応答するだろう。つまり世界には実在性のいろいろある対象にあふれているわけだ。世界を切り分けるにあたって、スパッときれいにいくものもあれば、いかないものもある。あえて切り分けようとするとそのやり方に規約が入り込むかもしれないが、手の指をどこから指と呼ぶかみたいな話で、そこがどうであろうが指自体の実在に揺らぎはない。《いずれにせよ世界は、おおむね相互に独立している実在的対象によって区切られうるとしても、完全に原子論的な姿をしていると考えるべき理由はないのである》(実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用 p46)。
だが反論者としてはそもそもスパッと切り分けられないものを実在などといっていいのかという話をしているのだから、これにどう答えればいいのか考えなければならないだろう。そのために「多型実現可能性」を備えた種について考察することにしよう。
【多型実現可能性】
恒常的性質群が恣意的なグループ分けだという批判にこたえるのが「メカニズム」であった。メカニズムは表面的なものを飛び越えて個体同士のつながりを明らかにしてくれる。場合によっては表面的な類似性は乏しくても基底的なメカニズムの点から同じ種だと分類される場合もあるだろう。
しかし時にはメカニズムが共通していないにも関わらず同種に分類されていたり、複数のメカニズムを基礎にひとつの種が実現されている場合がある。生物器官としての「翼」は物理的な実現の仕方は生物種によって異なり遺伝的な基礎もさまざまでありうる。にもかかわらず、それは「翼」である。また、人間・タコ・イカなどの「目」も相当違いがあるのにやはり「目」と呼ばれている。その他「痛み」、「貨幣」……。以上の事例はどれもメカニズムの異なるにも関わらず同種として分類されている。
- まずふつうに考えられるのはこうした種を自然種として扱わないことだろう。だがそれは典型的な規約種である「独身者」と、「貨幣」を一緒くたにすることもである。独身者に限って共通して観察される表面的性質は乏しいと思われるが、貨幣に限っては硬貨や紙幣など共通のものが見つかる見込みはある。また独身者については因果的説明があまり成立しないのに対して貨幣に対しては経済学上の多くの法則が成立する。そこで「中間種」という自然種と規約種のあいだの新しい区分を設けることが考えられる。これを中間種説と呼んでおこう。
- 今度は自然種として扱うパターンがある。メカニズム(諸性質を説明する微細構造)の一致は見られないもののそれ以外の二条件は満たしているわけだから、一定の理論的統一性はあるとみなす。とはいえ、全部の条件を満たしていないのに自然種と言い切ってしまうとなるとさっきまでの話はなんだったのかということにもなる。それについては、自然種であることの必要十分条件のように三条件をみなしてはいけないと応じられる。自然種と規約種のあいだには明確な境界線などなく、連続的につながっているのだ。とはいえ、そうすると今度は実在しているとかしないとかいったところでなんの意味があるんだという話にもなってくる。よほど極端でなければある程度は実在していると言い張るんだからやはりさっきまでの話はなんだったんだということになる。
- そういうわけで次は「本当はメカニズムあるんじゃないか」説が出てくる。翼についても、たとえ内的構造として共通のものがないとしても発生上の制約や生態的条件などの外的要因を含めれば捉えられる可能性はある。こうして考え方を広げてみると、単に内的メカニズムがあるだけでなくよそ様と関連したメカニズムがあればあるほど強固な実在性をもつことだろうと思われる。