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にんじんと読む「私はどうして私なのか(大庭健)」🥕 ①

 「存在」と「意識」は違う。背後霊を意識しているからといって、背後霊が本当にいるとは限らない。しかし、「私」に関する限り、このことは一致する。つまり、私が存在するというのは私が意識されていることであり、私が意識されているというのは私が存在するということである。私たちは胎児だったとき、そうした自分を意識していたわけではない。いつしか、自分を意識するようになった。対象意識から自己意識へと、いつのまにか向かっていたのである。

 自分というものの発生過程を実証的に分析するのではなく、ここでは自分という概念の構造を分析しよう。自分が存在しているというのは、つまり自分を意識しているということだが、それはものごとを意識しているということを意識している、そしてそれはまさに自分だ、ということである。この対象意識から自己意識への段階移行が自分成立の根幹である。私たちはあまりに「自分」に慣れ過ぎているので、対象意識さえ成立すれば自分に気づくことなど当然だろうと思ってしまうが、そんなことはない。私たちが「ハッと我に返る」のは、たとえばぼうっと何かに見とれていたときに、他人の目が気になったときだろう。

 私たちは単に、一人でボーッとしてたときにハッとするときがある。別に他人の目は必要でないように思える。しかし、こう考えてみたらどうか。「全世界に私一人だけが存在するとしても、対象意識は自己意識へと移行しただろうか?」人間の意識というものにははじめから、自己意識への可能性が含まれていたのだろうか。デカルトはそう考えていたように思われる。「我おもう、ゆえに我あり」即ち、なにごとかを意識することは、必ずや、そう意識している自分がいることを意識することだ、と。だが本当にそうか? 他人との関りは、自己意識にもっと深く食い込んでいるのではないか?

 

 鏡に映った姿に対してどう反応するのかを見るのは、自己意識の存立の有力な兆候である。視覚に焦点を合わせている点では不当だが、しかし、鏡像への反応は研究成果が多く、参考にできる。幼児や動物は鏡像に困惑し、遂には見るのをやめてしまうのだが、ある時期に至ると、反応が変わって来る。草花や木などとは違う、特別なあり方をしている何かがいることを知るのだ。そしてその何かが、まさに見ている自分自身であることに気づくというのは、さらなる問題となってくる。

 まず、ふつうの存在者は行くところへ行けば必ず見える。幼児にとって見えることは存在しているということである。しかし、自分の顔は見えない。幼児の描く絵は頭がデカく、体が信じられないぐらい小さいが、彼らは他人の顔に注意を向けている。彼らはまず、自分の姿や顔も見えるものだということを知らなければならない。だがどうやって? それは恐らく、他人と同じように、自分もまた他人から姿・顔も見える存在だということを理解するからではないか。

 自分とは他人ではなく、他人とは自分を見ている人だ、というのは明らかに循環である。他人という言い方を既にしているからわかりにくいが、「周りにあるソレらと同じ」といっている時点で「同じ」の対象である「自分」が生じてしまっている。この循環をもう少し辿っていこう。

 

「自分を意識している」 ー 「他人によって意識されている」

 

 そもそも、(1)周りにいるソレらにも、ものが見えているということを理解しなければならないし、(2)どう見えているのか、もっといえば、(3)ものが見えているというのがどういうことかも、理解していなければならない。このことは「自分」というものが既にできている人間にとっては、「他人」は「自分」と似たようなもんだから、そりゃそうだろうということになるのだが、いま考えている幼児には「自分」などない。しかしこのステップを乗り越えれば、「他人に見られている」ということが起こりうる段階に達することができる。思っていた以上に、多くのステップを乗り越えて、自分というものができあがっていることがわかるだろう。こうした段階をラカン鏡像段階といって重視した。この段階に引き続いて起きるのは、言語獲得である。

 

※ 自己意識と、他人からの意識のつながりは明白に説明されたわけではないが、『「自分が意識しているといえるための条件は、他人が意識しているといえることだ」ということを丹念に論じている』として個体と主語を挙げている。